フラワーランドマーク

 


 少年に恋人が出来たのは、つい最近の出来事である。彼は彼女の事をとても好いていたし、それなりの言葉を掛ければ、彼女もそれに応えてくれた。相思相愛だと誰もが思っている関係だという事だった。彼女の名前の中には、「花」と云う文字が居座っていたが、彼女は別に花を特別愛でる事は無かった。そもそも、自分の名前の中にある「花」を生物や植物のそれでは無く、どちらかと言えば記号として認識している様だった。大多数の人間がそう認識している様に。
 彼女は極端に友達と云うものを作ろうとはしなかった。髪を切り、爪を切るのと同じ行為をする様に、彼女は自分の中の人間を切った。当たり前だと言う様に。不要なものを捨てる、という行為とはまた違ったものだ。髪や爪の様に、或る程度は必要だが、時間が経ち過ぎればそれはただの邪魔なものだ、という説明が一番その型に当てはまる。そんな彼女が何故少年を選んだかは分からなかった。けれども少年も神秘的白痴美を湛えた彼女を気に入ったので、それは些末な問題だった。
 もう一人、彼女に選ばれた人間がいる。それは「花」と同じ年齢の少女だった。言葉は沢山知っているのだが、自分の思う事全てを形容出来ないので、中途半端に意思を伝えるよりは無口である事を選ぶ人だった。自分の思考を他人に伝える義務など無いと考えている人だった。彼女は「花」よりも高い身長と大きい目を持ち、すっと通った鼻筋が自慢するでも無く、何かの象徴のように彼女の顔に張り付いていた。彼女は日本人の姓名を持っていたが、母親がベルギー人だかフランス人だかで、世間一般で言うハーフだった。「花」は花の一つである、「撫子」の名を持つ無口なハーフの少女の事が気に入り、「撫子」の事も少年と同様のものの様に扱った。少年も「撫子」の事が好きだったし、同様に「撫子」も少年と「花」を愛してくれた。そう、少年と「撫子」は「花」にとって友達では無かった。そういう意味では、彼女には友達など一人もいない。
 
 花は遊園地が好きだった。ここで言う「好き」とは、アトラクションに乗り、娯楽を貪る事ではない。花は単に観覧車や回転木馬等の造形が好きなだけだった。よく撫子と少年を誘い遊園地へ行った。少年と花はカップルという事でたまに割引をして貰った。けれども撫子はいつも通常の価格を払った。「こんなの可笑しいわ。」と花は言う。「私達は三人でカップルなのに。」と。
 少年はその度にカップルは一対を表す言葉である事を思い出すのだが、彼女にそれを伝えた事は無かった。花にとって、言葉とは人間の次に来るもので、言葉に従う必要は無いと、それが花の持論だった。
 いつも通りに彼女は遊園地への約束を撫子と少年に取り付けた。けれども、その日に花は来なかった。撫子は来た。いつも通り、時間通りに来た。花はとても気まぐれな人だったから、これは別段珍しい事では無かった。撫子は明るい髪を揺らして、「入りましょう。」と言った。彼女は花の存在の欠落を、何とも思っていない様だった。彼女の人の愛し方は無音で、生命の恩恵など無縁の方法を使っていた。けれどもそこに愛は確かに存在する。不思議なものだ。
 これも馴染んだ会話だったので、その事は不思議とも思わずに少年は頷いた。撫子も遊園地の娯楽達を遠巻きに見る事はあったが、基本的に乗る事は無かった。張り紙程度の狭い背中を眺めながら、長身の癖に、彼女は狭い背中を持っているなと当然の事を思った。撫子はそんな少年の思考など考えずに、狭い背中を遊園地の中で晒していた。
 彼女は誰にでも平等に、退屈そうな白痴美の顔を晒しながら(花とはまた違った美しさを、彼女は持っていた。)白い手を背後にぴったりくっつけて組んで、人間寄りの平坦な歩みをした。彼女はいっとう人間らしい動作が苦手らしい。
 人間の内臓を巡る血液の様に動き回る回転木馬を一瞥して、撫子は歩いた。彼女は歩き回る人間達をそれと認識していない様だった。自分の中にある血液をそっくりそのまま人間のものだと思っていない様でもあった。
 撫子の内に宿るヨーロッパの気配を察知して、男性の何人かはその海外的魅力に惹かれ撫子を見たが、脇を歩く少年を見ると、興味が失せた様に彼らは自分達の恋人と歩き去って行った。まあ、そんなものなのだろうと少年は思った。彼らが少年を見て撫子や花に興味を失う様を見ると、自分の存在が有意義で人生を楽しくさせるものの様に思われて、満足出来るのだった。
 二人は歩いた。いつも通り、沈黙を道連れにして歩いた。踵を落とし息をして、少年は撫子に愛を見る。それはいつも通りの愛の行進で、それはほぼ同時に花にも向かい、しかし、少年に向かう事は無かった。ジェット・コースターの様に素早く、コーヒー・カップの様にくるくる舞い、メリー・ゴーランドの様に行き付く場所はない。そうだ、自分に行き付く場所はない。少年は空っぽの瞳を撫子に向けた。撫子は今日も無口だった。無口であり続けた。
 撫子は一回り遊園地を徘徊し、一番奥にある、この遊園地の象徴である観覧車の前で立ち止まる。自分の一番好きな造形美の前では、人間は足を止めずにはいられない。そういった点で、彼女はきちんと人間的であった。
 少年が造形物の様に突っ立っていると、ひと撫での時間の後で撫子は「乗りましょう。」と言った。彼女が進んで何かを提言するのは初めてだった。彼女は要領も良く、頭も良く、こなそうと思えば何でもこなせる気配を纏っていたが、その気配を脳に染み渡らせて行動すると云う事は数える程しか無かった。驚いて動けずにいると、彼女は少年の腕を組んで観覧車の方へ歩んで行った。腕を、組んで、歩んで行った。
 観覧車の前に突っ立っていた男性に、撫子が乗りたい事を告げると、男性はゴンドラが来るのを見計らって、足元に気を付けて乗れと言った。少年達が近付いても、ゴンドラは止まらなかった。人間の作った機械に人間が合わせている様に思われて、少年は少々不快に感じた。
 今まで乗った事の無い観覧車に乗ったのは新鮮な出来事であった。そうだ、自分は観覧車に一度も乗った事の無い人間なのだ、と少年は思い出さねばならなかった。撫子はスカートを揺らして軽やかに乗った。長身にしては、少々軽やか過ぎた。
 「観覧車に乗ったのは初めてだわ。」
 と、撫子は言った。観覧車に乗る大勢がそうする様に、座席に座りながら。遠ざかる地上の形には目もくれず、彼女は少年だけを見ていた。ゆっくりと、でも確実に、彼女と少年は地上から離れていた。しかし空に近付く事は無く、彼らは観覧車の循環に従っているだけだった。嗚呼、人間は何処まで行っても、地上から離れる事は出来ない。少年は思った。
 「何故乗ったの。」
 少年は撫子に質問をした。撫子はいつも通り黙った。日本人のそれとも、ヨーロッパ人のそれとも違う、曖昧な色の瞳が、瞼の縁を沿う様にして動き回っていた。図書室で目当ての本を探るみたいに。彼女は脳の中の図書室で、言葉を探していた。観覧車が四分の一くらい巡る頃に、彼女は口を開いた。何分、大きな観覧車だった。
 「この遊園地に入る時、わたしとあなたはカップルだと認識されたわ。」
 そう彼女は言った。少年は遊園地に入場する時に、カップル割引だと言われて、チケット料金を割引されたのだと、思い出す。
 「そう。わたしでもいいのよ、別に。わたしでも。けれども、花とわたしはカップルではない。」
 うわ言の様に言って、撫子は席を立った。狭いゴンドラの中、少年の側へ辿り着くのは簡単な事だった。少年は固まった。空を背景に影を落とした彼女の顔を凝視していた。何にも縛られていない筈なのに、彼は確かに何かに束縛されていた。撫子は少年の首筋に手を掛けて、自分の唇を少年の唇に押し付けた。長い事押し付けていた。少年は何かを自覚していた。押さえ付けられた首筋から、やけに心臓の音が響いた。撫子の中身が少年の食道を伝い、胃の中に流れて行った。代わりに少年の中身は撫子に吸い込まれて行った。撫子の中身は空に限りなく近かったから、少年も空っぽにならなければいけなかった。空になった人間の形をした容器は、紛れも無く少年自身だった。
 「何故。」
 そう言ったきり、少年は黙りこくっていた。黙る他無かった。撫子はもう一度黙ってから、唇を不自然に歪ませた。どうやら笑っている様だった。
 「わたし、花の事好きよ。あなたの事も好き。けれども、此処までの愛を、唐突に、無残に、切り刻んでしまいたいの。その破壊の瞬間は、とても魅力的だとは思わない?」
 そう言って撫子は体を少年に張り付けた。彼女は少年に破壊的興味を抱いている様だった。どうすれば少年と花との関係を上手く決裂させる事が出来るか、考えている様だった。
 「それは誰にでもある欲求だと思うわ。綺麗にすとんと落ちてゆく関係ほど、上手に突き落としたくて堪らない。その行為が齎す快楽は一瞬だけれども、人間は一度経験したその瞬間を忘れる事なんて出来ない。そうでしょう? わたし、その瞬間を経験した事があまりないから、まだ実感出来ないの。花はきちんと破壊してくれるかしら。ねえ、あなたはどう思う?」
 少年はやはり何も言えなかった。ゴンドラは一番高い位置まで来ているが、少しも空を実感出来なかった。観覧車は空に近付く為のものではなく、地上を自覚する為のものなのだ。少年は考えた。撫子は美しい瞳を珍しく輝かせて、もう一度彼に接吻をした。撫子は少年の事を好きだろうが、この行為に愛は無いのだろう、と少年は考えた。しかし、この程度で花や少年の関係は壊れやしないだろう。花は誰が少年と接吻をしようが、何とも思わないに違いないのだ。否、そもそも花は撫子が少年の事を好きならば、接吻をするなど当たり前だと考えるかもしれない。それでは一体この関係は何なのだろう。と少年は考えた。三角などではない。様々な糸を張り巡らされた、もっと複雑なものなのだ。
 この関係が絶たれるまで、このゴンドラがひと巡りするまで、撫子は少年の恋人である。
 

かつみさんにこの作品をリライトして頂きました。『フラワーランドマーク

 

 

inserted by FC2 system