魔法使いのイデア―前編

 

 孤独は必ず自分以外のものから習得する。
 一人で生きて来た孤独に、意味など無い。それは孤独の仮面を被ったまがいものだ。その事実は、人間が孤独とは縁のない、孤独のない、何処か他の場所からこの場所へやって来たという、説を生みはしないだろうか?
 
 或る街のはずれの屋敷に、一人の青年が住んでいた。色々な噂が街の中で生まれては消えていたが、親はいないらしかった。街への買い出しは街から屋敷へ働きに出ている女の使用人が請け負う仕事であった。とても無愛想な女であった。顔は整っているとは言い難く、街に住む人々はあの屋敷で働く女の事を遠巻きに見て、噂をまた生み出した。青年を実際に見た事のある人はない。ただ女が「彼はお若いですから。」と言っていたのを聞いた人間がいたので、ただ青年と予想をつけただけであった。大富豪の息子だとか、哲学者の息子だとか、噂は掃いて捨てる程に溢れていた。
 その女の使用人が事故で死んだのは、誰も予想の出来ぬ突然の出来事であった。のどかなこの街では珍しい、交通事故だった。身寄りのいない物言わぬ女は、街の人々の手によって街の墓地に埋葬された。
 女の死体にまるで布団を被せる様に、人々は土をかける。そしてその眠りの上に、墓石を立てる。その墓石は物を言わない。つるつるとした、美しくも汚らわしくもないその石は、いつかの女の姿にとてもよく似ていた。人々は墓石にソフィアと名を入れた。余所余所しくささやかな別離は終えた。そうして、ソフィアはこの世からいなくなった。
 この街からソフィアという女が消えて、新たな噂が立ち上った。買い出しをしてくれる女がいなくなったのだ。それでは、屋敷に住んでいるという男がこの街に直々に買い出しにやってくるのではないだろうか? その噂は人々に刺激と僅かな生気論を生み出した。しかし、とうとう男はこの街にやって来る事は無かった。
 この話は、その男と、ソフィアの話である。
 
 或る街のはずれの屋敷に、ベルクソンという姓名を持つ青年が一人住んでいた。彼は幼い頃に両親と死別(彼らはベルクソンに金と屋敷と本しか残さなかった。写真すら残さなかった。)し、ソフィアという女の使用人に育てられた。ソフィアは必要なものだけを彼に与えた。余所余所しく、冷たくも温かくもない、革靴のような温度を持つ女だった。彼は本を読み、街に出る事もなく、人間に興味を持つ事もなく、日々を過ごした。彼はソフィアの育てる花の種類で今がどんな季節かを知った。ソフィアの黒い髪を見て、今日がどのような天候かを知った。
 ところが、或る日を境にぱったりと使用人は来なくなった。彼はいつもより静寂が支配した広い屋敷を歩いて、大きい冷蔵庫を漁り、食材を齧り過ごした。不安や焦燥を感じる事も無かった。何が彼の中の水面を騒ぎ立てる事も無かった。常に落ち着き払っていた。
 冷蔵庫の食材が全て彼の胃袋の中へ消える頃に、屋敷の中にコンコンという音が生まれた。ソフィアの育てた花が枯れ行く頃だった。屋敷の中が埃っぽくなり、中庭の草が伸びゆく頃だった。それが玄関扉を叩く音だと気付くのに、しばらく時間を要した。彼は思い出の灰を取り除き、幼い頃、両親と過ごしていた時間に響くノックを聞く。そのノックは彼の水面を珍しく騒ぎ立てた。何故ソフィアはいないんだ、じれったい。初めてソフィアの存在の欠落について彼は考え始めた。
 「どちらさま。」
 声を放つのも随分久しい気がした。声の泉の水が枯渇しているのか、上手く声が出せない。扉を申し訳程度に開ける。普段全く役目を果たさぬ扉は、ギイギイと苦しげに喘いだ。それはこの箱が青年を閉じ込める箱と化して行っている何よりの証拠とも言えた。もしかしたらソフィアかもしれない、と思ったのは声を放ってから大分後の事だった。
 扉の向こう、箱の外には見知らぬ娘が一人、大きい目をして立っていた。ソフィアとは全然全く違う位置に立っているような小娘だ。ベルクソンより五つ程歳は下だろうか。ソフィアよりも愛らしい娘だった。ソフィアが異端なだけで、この世に存在する女は皆こうなのかもしれない、と彼は思った。
 しばらくの沈黙の後、娘は小さく咳払いをした。その咳払いはベルクソンの耳から彼の中に入り込んで、よく分からない水面を悪戯に掻き回した。それと同時に声の泉の水がさわさわと奥底から湧いて来て、喉が潤った。
 「私、ソフィアです。旦那様。」
 と、娘は言った。旦那様。その呼び方はソフィアが使っていたベルクソンへの言葉だった。
 「嘘だろう。」
 そう言ってベルクソンは扉と鍵を閉めた。彼女は画家が思い描く笑みを張り付かせたまま、扉の向こうへ消えた。可笑しな客が来たものだ。自分で扉を開いたのはこれが初めてな気もするが、開けるのは二度とご免だ。彼は考え、元いた部屋、埃まみれの書斎へ戻ろうと階段をのぼった。カーペットの敷かれた階段は自分がカーペットを踏み付ける度に埃を吐き出し空気や空間の仲間になってそこらに舞った。二階の書斎への扉を開ける。いつもギイギイとなる筈の扉は、何も言わずにベルクソンを自分の胃の中へ招いた。その時点で彼は特に扉について何も思う事は無かった。それから、部屋の中の異変に気付く。
 書斎の床は、彼が一度読んだきり放置した本が埃と一緒に散乱している筈だった。足を踏み入れる細い隙間の奥の窓の側に椅子があり、その椅子の上だけが汚れていない部分だった。本棚は、本来の役職を放棄している筈だった。
 「酷い、旦那様。」
 椅子に座っていたのはあの小娘だった。小奇麗になった床と、本棚に詰められた本の数々と共に、ソフィアと名乗った娘は笑った。彼女は一冊古びた本を抱いていた。それはベルクソンが今読んでいる最中の本だった。
 「随分古い本を読みますのね、旦那様。」
 小娘は椅子から立ち上がって、ベルクソンに歩み寄り、本を彼に返した。彼が何度も読み倒している本だった。しかし、彼は特にその本を気に入っている訳でも無かった。ただ、一番目の付く場所にその本があるだけだった。
 「お前は誰だ、あのソフィアなのか。」
 男は本のタイトルを心の内で何度も唱えながら少女に尋ねた。少女はぱちくりと目を開け閉めした。しなやかな金髪をゆらし、空気に住んでいる何かを吸いこんだ後に、彼女は答えた。
 「どのソフィア?」
 追い出しても追い出しても彼女は家の中に現れた。その度に屋敷の中は小奇麗になって行ったし、冷蔵庫の中には食材が溢れていたし、小腹がすいたらダイニングに温かな料理が用意されていたし、喉が乾いたらティーが用意されていた。中庭も綺麗になり、枯れていた筈の花は元の瑞々しさを取り戻していた。ソフィアがどのようにして屋敷をこの状態まで連れて行ったかは分からなかったが、彼はやがてソフィアを追い出す仕事を放棄した。彼はソフィアに部屋を与えたが、それ以上は与えなかった。そうしてソフィアは屋敷に住み付いた。彼女は屋敷を美しく保っていたのは確かだったが、ベルクソンは彼女が掃除や中庭の手入れなどをしている様を実際に目撃した事はないのだった。
 「この屋敷には、小説はないのですね。」
 書斎を眺めてソフィアは或る日ふと言った。それだけ言った。
 けれども彼は相変わらず流れる様に日々を過ごした。しかし、前のソフィアと今のソフィアは違った。彼女は彼が本を読んでいる最中に自らを甘く染めたティーを運んできたし、たまに書斎の窓辺に花を添えた。本の文字を追う視界の隅にちらつく彩りが鬱陶しくて下げろと言った。ソフィアは言われた通りに花を下げた。
 或る日、またソフィアが窓辺に花を添えた。白く首(こうべ)を垂れた小さい花だった。
 「その花は何と云う。」
 「スノウドロップと云います、鮮やかな花はお嫌いかと思って。」
 ソフィアは答えて、本を読む彼を見て、それから「やはり下げましょうか。」と事務的で水面を荒立てない個性の無い声で尋ねた。ベルクソンはふむ、と言ってから考えて「いいや、そのままでいい。」と答えた。
 彼女は少し愛らしく笑って個性を取り戻してから、何処から持って来たか分からぬ、彼の座っている椅子に向かい合う様にして立っている彼の座っているものと全く同じ椅子に腰掛けた。
 「何の本を読んでいますの。」
 スノウドロップの彩りを一瞥してソフィアは尋ねた。ベルクソンはページを捲ると同時に、腹の底からタイトルをすくい上げて発言しようと思ったが、小難しいタイトルをこの娘は理解出来るだろうか? という疑問が彼の脳の中の何処かで産声を上げて、彼は考え込んだ後に、彼女が理解しやすいだろうと彼なりに思う単語を口にする事にした。
 「パラドックス。」
 「アキレスと亀?」
 「いいや、全能の逆説。」
 「全能。」
 彼女はその小さな体の奥底を震わせたみたいだった。ソフィアは全能の響きを気に入ったようだ。この本をもう一ページ捲る頃に、ベルクソンは尋ねた。
 「おい、お前が変な業を使うのはもう分かっているんだ、お前はお前が持ち上げられない石を作る事が出来るのか。」
 「私は全能ではないですよ。」
 そう笑い、ソフィアは言ったが、正体不明の業を使う事を否定する事はなかった。それから彼女はふいと俯き、手元にある本を弄んだ。彼女は本を手に取る事はあったが、開く事は無かった。ベルクソンはパラドックスに足をつけて、そして全能についての記述を垣間見る。全能とは何だ、石を作り出す事か。しかし石を持ち上げる事の出来る人間は、石を持てぬ能力を失う事になるのだ、全能など何処にもないのだ。だからソフィアはそう言ったのだ。ソフィアは石だってなんだって、きっと作り出せるだろうから。根拠もなく、そう思った。
 少しばかりの沈黙の壁を作った後で、ベルクソンはしばらくソフィアに何かを話そうとした。何かを話さねばならぬと思うのだが、その思いの根源は彼の中で姿を上手く消していて、掴む事は難しかった。彼はまたふむ、と声を放った。声は放たれ消えたが、根源が消える事は無かった。
 本を読み終えた後、彼は下の階のリビング、広いテーブルの席について、いつも通りいつの間にか用意されていた一人分の食事を食べた。ソフィアは彼の背後に控えていたが、お前も食べたらどうだと言うと、大人しく彼の正面の位置に座った。この屋敷にベルクソンとソフィアしかいないのは、とても不自然な事のように思われた。彼らにこの屋敷は広過ぎた。それはあらゆるものを曖昧にして萎縮して拡散させる。ベルクソンはどうやって彼女の食事が出て来るのだろうとソフィアを凝視していたが、瞬きをすると彼女の前にはもう食事が輪郭を現していた。
 無言だったがしかし、とても安心の出来る食事であった。その時間で彼は彼女が来るより以前、あの使用人が屋敷にいた頃にどうやって食事を取っていたのか思い出せない事を自覚する。もしかしたら、とベルクソンは思った。自分は今まで食事というものをどうとも思っていなかったのかもしれない。ベルクソンは食事に執着などしなかった。生命を存続させる手段の一つだと思っていた。必要以上の食べ物は口の中に入れなかったし、一部の人間が抱く「食事は娯楽にも成り得る」という考えを脳内で飼った事も無かった。
 「明日は雨だそうですよ。」
 出し抜けに彼女はそう言った。息をする様に、食事を取って、息を吐く様に、彼女は美しい響きと余韻で言葉を放つ。ベルクソンはふと何故自分は二人きりで食事を取っているのだろうと考えた。食事は味気が無い代わりに腹に溜まって彼を支えている様に思えた。
  

 

 

 

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