鏡に映る若者
 
 
 
 役人、罪人引き受けるべく東へ、其処の或る村に赴く。日は陰り、空は夕暮れの時刻であった。罪人の罪状如何にと村人に尋ねると村人答える。「彼狂悖の性難く、皆彼を避けるばかりであったが、ついに発狂し人を殺した。」と。
 其れを聞き役人慄き侮蔑の意を表す。即ち、狂人他の命をせしめ、衣を赤く染め狂乱に狂乱を重ね、其れでいて愧赧の念覚えず無自覚の罪状を放って見向きもせぬという。役人己が正義滾らせ、村人に罪人を引き渡す様命ず。村人喜び勇んで村の外れの倉庫に役人を案内し、其処に居た仲間らに役人の事を紹介す。「彼、あの不届き者を罰する役人様である。狂人を早く彼に引き渡そうぞ。」
 かくも固く閉ざされた倉庫の扉のその奥より村人に連れられ狂人出で立つ。人目を憚るが如く俯き、こちらに顔を見せようとしない。顔を上げよと命じると若き狂人顔を上げ、役人に美しく温和な表情を晒す。とてもこの若者が狂人だ罪人だと恐れられている様には見えぬ。此れも彼の策略かと役人身構えるも、罪人彼に畏怖嫌厭の念を表しもせず、ただ無抵抗に役人の前に立っている。彼を縛る鎖等は不必要かとも思われる。
 そうしていると村人達罪状を事細かに説明す。曰く「此の若者、浅ましくも妻の腹にある子供の死隠すべく妻の腹を裂き、其れを咎めた父親をも刺殺し、そして反省の色を見せぬ。」と。
 若者其処で微笑み、役人の顔を見上げる。成程、此の仕草が彼を狂人として育て上げた所以であるかと思い、役人軽蔑の色を蘇生させ、目の前の若者を捕える。二人、役人と罪人の名を背負い、遥か西の地へ帰るべく村を後にし夜の道を引き返す。
 「何故妻と父を殺した。」
 役人尋ねるも狂人答えずただ彼の後ろを付いて歩くのみである。役人は罪人と呼ばれる者達を都へ連れ行く任によく就くものだから、此の罪人の罪状、美しい顔、有り触れた狂気すらも、直ぐに忘却の彼方へ忘れ去ってしまうだろうと考える。そう考えた事に限り、脳裏に焼き付き往々にして表に出て来ては騒ぎ立てるものであるが、此の時役人無自覚であり、自覚する術を見付けるのはずっと後の話である。
 思考巡らせ唸っているとふと狂人答える。彼の声は温和であり、自分の仕出かした事実を遠い場所から茫然と眺めている声色で、宙に浮かぶ現実離れした音であった。
 「わたくしは母は居らず、父に育てられた。婚約者の女は父が選び、わたくしは彼女を自分なりに愛していたのだ。子供が出来ていっとう愛は深まるも、父が彼女に乱暴し、腹の中の子はその時に死んだ。狂悖の性深まったのはわたくしではなく妻の方である。母性の行方を彼女は亡くしたのだ。其れを、其れを村は認めぬ。嗚呼! 腹の中の生命を、生命とは認めるが、個人とは認めなかったのだ! わたくしは彼女に生命の実感を与えてやりたいだけだったのだ。生命、出産、痛み、一体、其れの、何処が違うというのだ? 皆同じだ。同じ事だ。だのに、社会は其れを切り離したがるのだ! お前らはそうやって、自分の中に或る鏡でしか物事を見る事が出来ぬのだ。皆、鏡に映る自分だけを見ている! 罪人はこの世の全てが罪であると考えているし、純粋な小娘は世界が素晴らしいものだと考え込んでいる。其処に他人の姿など見ていない、皆、他人の向こうに己の姿を反映する事しか出来ぬのだ! お前もそうだろう? お前もそうなのだろう! お前は役人という役職を預かっていると聞いたが、果たして其れは硝子か? 鏡だ、鏡に違いない、皆同じだ! 客観性など、何処にも在りはしないのだ、在るのは鏡に映る現実のみなのだ、妻は、其の鏡を通して…、嗚呼。」
 何かの書を諳んじた様に罪人捲し立て其の先に沸き起こる絶望に駆られて項垂れる。役人気押され黙り込むも、可笑しくなって内心で笑い転げる。狂人の考える事は、此れだから分からぬ。愉快なものだ。
 「罪は罪であり、鏡の形ではない。其の主張はお前の無罪を証明するものとは程遠いものであるぞ。」
 役人答えて夜は更けるばかりである。狂人諦めた表情で微笑み、先程の興奮忘れ去り頷くも、其れは肯定とは程遠い所作であった。二人其の後の会話無く、都に戻り其々の行くべき場所に落ち着くも、役人或る時狂人への疑問を思い抱き、けれどもとうとう其れが回答になる事はなかった。
 「若者自分の鏡を通して世界に何を見ていたか。」狂人牢獄の中で自分の舌を噛み千切り、或る寒い朝に死んでいた。
 
モチーフ・中島敦著「山月記」 森鴎外著「高瀬舟」
 
 
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